2015年韓国の話題のキーワードは、「ヘル朝鮮(地獄の韓国:韓国の劣悪な環境を指す造語)」だった。

「努力」することに疲れた青年たちに、希望は贅沢のようなものだった。鬱憤がたまってきた。しかし、世の中を一瞬にして変えることは難しい。壁にぶつかった青年たちは、「クムスジョ(金のスプーン:親の持つパワー・財産・背景などが2世に継がれることを指す造語)」の前で挫折し、その一部は人と比較しながら比較優位に立っていることに慰められたりもした。
私たちはこのように大変な状況だが、隣の国の青年たちはどういうふうに暮らしているのか気になってきた。ふと考えてみると、日本は1990年代前半からなんと20年を失われたと言われており、非正規の仕事にも悟った悟り世代もいるだろう。そして、「小皇帝」、「小公主」のもてなしを受けながら育った中国の青年たちは、「クムスジョ」とは比べ物にならないほど「関係(コネ)」に幻滅を感じるのは当然だ。
それで、ソウルと東京、北京の青年たちに直接会ってみた。特別な誰かではなく、私たちの周りで普通に会える友達であり、兄・姉・弟・妹でもある。日本と中国、単に韓国の過去と未来とされる隣の国の普通の青年たちの人生は私たちとどこが違うのか見てみよう。
日本語
language   영어 보기  EN  한국어 보기  KR  중국어 보기  CH
  • 日本



    就職氷河期?僕はあまりそう思わないが…
    明治大学国際日本学部4年生の神谷彰典(22)氏は、既に8月に三菱製鋼に合格した。15社くらい面接を受けたという神谷氏は、「就職難という話はあまり聞いたことない」とし、「周りに就職が難しいと言う友達はほとんどいない」と話す。

    厚生労働省が昨年初めに発表した資料によると、日本の大卒就職率は96.7%だという。韓国国内でも関連記事が次々と報道された。統計の数字に誤りはあるかもしれないが、実際に東京で会った青年たちも「就職は決して難しくない」と口を揃える。
    2011年に日本に留学しに来た韓国人留学生イ・アイン(24)氏は、今年3月に拓殖大学国際学部を卒業し、帰国の代わりに日本現地就職を選んだ。イ氏は、「韓国の友達は、『100社にエントリーしても落とされるし、労働環境があまりにも厳しい』という話しかしない」とし、「日本では大手企業だけにこだわらない限り、就職が難しい訳ではない」と言った。また、「大学で一緒にバンド活動をした友達は、授業もよくサボったりして勉強熱心でもなかったのに、誰よりも先に内定をもらった」とし、「日本ではあういう人も就職できるんだなと思った」と話した。日本のエントリーシートには成績を書く所がないから可能なことである。


    スペックの問題ではない

    拓殖大学国際学部4年生である庄司結里(22)氏に見せてもらったエントリーシートは変わった形をしていた。ウェディング会社に出した書類は手書きで、絵を描いて写真も切り取って貼ってあった。会社で要求した内容は、「自分の個性を活かしてウェディングプランを作りなさい」ということ。庄司氏は、「仲良しの友達の特徴を活かしてドレスやメイク、結婚式のコンセプトはもちろん、新婚旅行までオーダーメイド型で提供するアイディアを表現した」という。
    日本で就職の成否を左右するのは、個性と創意力である。庄司氏は、「面接中に『白紙に自分を表現しない』という質問を受けたが、抽象的な課題をどう解決すればいいのかお先真っ暗だった」と話す。東京に面接を受けに来た青森県の弘前大学4年生である坂愛子(22)氏も「『上司の命令で火星に行くなら、何を持って行くつもりなのか』という問題を見て慌てた」と当時を思い浮かべた。
    就職に正解がないため、学生たちは就職の準備より、大学生活を楽しむのに時間を費やした。神谷氏と庄司氏は2人ともバスケットボール部活を長くしてきた。庄司は、7年間バスケットボール部活をしながらキャプテンまで務めた。神谷氏は「普段は社会に出るとできない、学生時代に楽しめられることであれば何でも一生懸命にしようとした」とし、「就職だけを考えて他に努力したことはない」と言った。 もう一つ日本の大学生を苦しめるのは、「新卒一括採用」システムである。企業で大学3・4年生を採用する方式だが、就職浪人の枠が極めて限られているのが特徴である。坂氏は「新卒採用の際に就職できないと、入りたいと思う会社に入りにくい」とし、「今必ず就職しなきゃというプレッシャーがあるから時間が経てば経つほど不安を感じる」と言った。


    非正規社員でも大丈夫、ブラック企業でなければ…

    一方で、日本の大学生が心配しているのは、就職そのものではなく、就職後その先の人生だった。日本では、労働者に厳しい働き方を強いる企業という意味の 「ブラック企業」に対する批判が激しい。2009年には『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』というタイトルの映画が公開されたりした。

    庄司氏は、就職活動中にブラック企業に関する本を読むのと、ウェブ上で調べるのに最も多くの時間を費やした。あるホテルから内定をもらった後、一番最初にしたことも会社評判情報サイトを確認することだった。 池袋で会った仲陽介(26)氏がニート(NEETㆍNot in Education, Employment or Training)の道を選んだのも、長く働いて少ない給料をもらっている友達のように生きていく自信がなかったためだ。彼の所属している「ニート株式会社」は、ニートが集まってプロジェクト単位の事業を進める会社だが、仲氏は「会社に属している人の中には、少ない給料や頻度の高い残業などの厳しい環境に耐えられずに転職先を探す人が多い」と言う。
    しかし、ブラック企業でなければ、非正規社員に対する抵抗はなかった。不平等な処遇や差別はなかったそうだ。イ・アイン氏は、卒業後に入社した会社が合併され契約が切れたため、新しい職場を探している。イ氏は「昨日受けた面接は契約社員だが、正社員と給料やインセンティブの差がなかった」とし、「契約期間が終われば、キャリアを積められるように100万円を支援する制度もあった」と話した。 神谷氏と庄司氏は韓国の就職状況を聞き、「韓国は、大手企業に就職しなければ、安定的な生活ができないというプレッシャーがあるみたいで、周りの目も意識しすぎのではないか」とし、 「日本では、中小企業に入ったとしても人生に問題が生じる訳でもないし、皆そう思っているから周りの目を意識する必要もない」と、ぐるになっている訳でもないのに口を揃えて同じく話した。
    もしかして日本の青年たちが低賃金労働の惰性に流されて口にした言葉ではないだろうか。庄司氏が就職した会社は、年俸250万円(給料が高い方ではない)。イ・アイン氏は、インセンティブを含めて年俸280万円(従業員が9人の小さい会社)だった。東京は交通費と家賃が高いが、交通費は多くの会社が補助してくれるので、家賃をシェアハウスでセーブすれば、ソウルより決して悪い条件ではなかった。東京で働いているある韓国人は、「色々考えてみたら、中小企業に就職してもソウル暮らしより生活の質が落ちる訳ではない」と話した。
  • 韓国



    26歳男性の定義「大手企業と中小企業でなければ就活準備」

    「最初、大学を卒業した時には、サムスンさえ入れば親の誇らしい息子になれると思いました。大学院で勉強している今は、お父さんに『僕はサムスンではなくて年俸いくらくれる何とか会社で働きたいんですけど、サムスンではないけど楽しく働けそうです。』と言いたいです。でも、現実的には難しい話ですよね。結局、仕方なく、もっともらしい大手企業に就職して『周りに自慢してくださいね』というふうにしか言えないです。誰の作った社会かはわかんないですけど、これが韓国の現実だと思います」

    ソウルの有名私立大学院に通っているカン・ビョンウ(27)氏は「韓国で26歳の男性を2種類に分けると、『その子は大手企業』、『あの子は中小企業』」だとし、「就職を目前にした人なら、『どこの息子はどこの大手企業に就職したらしいよ』と親に言い回しで責められた経験のない人はいないはず」と話した。 カン氏は、2013年に地方の国立大学の電子工学学科を卒業した。当時は、まず就職しようと思った。専攻を活かさず、建築・精油・化学・製薬など20社近くエントリーした。中には内定をもらった会社もあった。しかし、彼は就職を諦めて大学院に進学した。「面接の際に、『うまくできるのか』という質問に、自信を持って答えられなかったから」だという。大学院で専攻について、より深く勉強すれば、自分が本当に何をしたいのか、自分にできる仕事は何なのかを具体化することができると思った。
    そして、修士卒業を半年控えている今、彼の目標は変わった。表面的に大手企業志向は変わっていないが、盲目的に『サムスン』だけに向けて走っていた2年前とは違う。カン氏は、「大学卒業の時の目標だったサムスン就職は僕の目指した目標ではなく、社会が、親が、友達が立てた目標だった」とし、「今は、僕が会社でどういう仕事をすれば楽しく働けそうだという具体的な目標を立てるようになった」と話した。 修士号を取得したとしても、会社を選んで行けるほど韓国の就職状況は良いとは言えない状況だが、はっきりとした目標ができたおかげで、彼は強い心を育むことができた。「就活の際、学士と修士の扱いはあまり変わらないので、依然として不安感を抱えている」とし、「今は人の基準ではなく、自分の目標ができたので、失敗を恐れてはいるけどそれを乗り越える力を育てようとしている」と話した。 研究室のプロジェクトを進めているカン氏は、1日10時間以上を研究室に引きこもっている。友達と電話する時には、誰がより長く会社に、研究室にいたのか競い合うようにお互い苦しい状況を吐露した。このような状況の中で希望を、幸せを、話せるのか。カン氏は、「仕事とお金で幸せを求めるなら、100点満点の49点だ」とし、「明日になっても今日より短く働ぎながら、多くのお金を稼げそうでもないから」とその理由について話す。といっても希望は失わなかった。
    「僕は逃げで語学研修を行って、逃げで起業もしたし、卒業猶予もしました。大学院進学も逃げだと言えます。でも、結局、逃げ場はないです。『脱朝鮮』が正解ではないと思います。こんなふうに話すと、誰かには『お金持ちだね』と言われるかもしれませんが、決してそうじゃないです。僕の感じた幸せな生き方は、2つです。人と比較しはじめると、その瞬間が地獄だということ。そして、避けられない仕事は、楽しむべきだということです。どうやって仕事を楽しむかというと、絶えず人生の目標を忘れないように心掛ければ良いんです」

    「運動は100位でもお先真っ暗、勉強は1万位でも良し」

    ソウル舍堂洞に住んでいるファン・ジェヨン(27)氏は、カン・ビョンウ氏と同年輩だが、現在置かれた状況はかなり違う。ファン氏は、最終学歴高卒で、「アルバイトでタバコ代くらい稼いでいる」実質ニートである。しかし、彼も一時期は、大学時代にデモにも参加した熱血社会学徒だった。

    意外と父親は簡単に説得することができた。マラソン選手出身のファン氏の父親は、「運動選手は全国で100位してもお先真っ暗だが、勉強は1万位しても将来が保障されるんじゃないか」という言葉をしょっちゅう口にした。勉強すると言ったら止めなかったりはしなかった。 そうしてソウルに来たのが2004年。実家で新聞配達をしながら貯めたお金も底をつき、家の都合で仕送りもたまに切れたりしたので、17歳という幼い歳では堪えにくい生活苦が押しよってきた。期限切れのコンビニおにぎり2つとカップラーメンで食事を済ませ、考試院(コシウォン:受験生向け賃貸部屋)管理者がドアを叩く時には、息を凝らす時もあった。ファン氏は「当時、激しい無力感に襲われた」と言う。 紆余曲折を経て、首都圏4年制大学の社会学科に合格した。しかし、無力感のトラウマは、大学4年生の時に再びやってきた。軍隊から除隊した後、家の都合と大学授業料など、重なるプレッシャーにファン氏は「ある日、すべてを諦めるしかなかった」と当時を思い出した。 その結果は、除籍だった。ファン氏は、自分の「メンタルの弱さ」のせいだと認めながら、「もし僕が『クムスジョ』で、お金の問題に悩まず、小さい頃から励まされながら失敗を乗り越える生き方を教わったなら、どうなったのかと思ったりする」と話す。
    ファン氏も「ノー答(答えのないという意味で、どうしようもない状態を指す造語)」である「ヘル朝鮮」で幸せを求める方法について、カン・ビョンウ氏と同じ考え方を持っている。 「アラン・ド・ボトンのTED講演を印象深く見たが、『失敗は怖いが、最悪は最後に自分が求めていない結果を得た時』」だとし、『自分が本当に何を求めているのかについて深く考えてみて、その成功を追った方が良い』という部分が記憶に残る」と話した。また、「自分の価値観を立てて自らが人生の主人公になれば、自然と幸せになるのではないか」とし、「やる気を持ってできる仕事を見つけて新年には新しい人生を送ってみたい」と話した。
  • 中国



    あなたたちに貧富の差が分かるか?

    「このレストランに来るお客様は、一食に1万元(18万円)くらいは何気なく使える人たちです。中国の貧富の差は、想像以上に激しいです」 河北省出身の崔梦蝶(24)氏は、北京のある高級レストランの隅にある小さな喫茶店で働いている。メニューのお茶の値段を見て驚いた。一口量のお茶一杯の値段が、なんと128元(2千300円)で、4~5杯分のポットの値段は480元(8千800円)だった。サラリーマンの平均的なランチ代が30元(550円)ということを考えると、ポットに入ったお茶が16回分の食事代と同じようなものだ。
    韓国の「クムスジョ」、「フクスジョ(土のスプーン)」という話を聞いた崔氏は、「中国では、お金と権力による差別と不平等が日常の隅々まで染み込んでいる」とし、「一部の職場や公務員職は、高官や富裕層の子でない限り、どんなに能力があってもなれない」とした。韓国の中国筋によると、「中国中央テレビ(CCTV)では、採用情報を公開せずに役員や高官の子のみを『関係(コネ)』で採用している」と耳打ちした。 ユネスコによると、中国の大学進学率は、2003年15%から2012年26.7%まで、毎年1%以上上がっている。1980年代以降、大学の数と定員を大幅増やし、一人子政策に伴って子供の教育に熱心な親も増えたため、地方でも大都市の大学に留学する学生が増えた。しかし、中国の経済状況を見ると、増えていく大卒者すべてが学歴に見合った職場で働ける訳ではない。これは、地方から来た留学生が大学卒業後、都市の貧困層に転落する結果をもたらした。崔氏には、「多くの大学生は自分の専攻を活かせず、勉強しただけの処遇を受けていない」とし、「それに、多くは一月5千元(9万円)くらい稼ぐ私より給料が少ない」と話した。
    にもかかわらず、崔氏は「それでも中国にはチャンスが多く、希望がある」と強調した。最終学歴中卒である彼女が、高級喫茶店でマネージャーとして働きながら、大卒者以上の処遇を受けているからだ。「もちろん、中国でも農業やレストランの従業員といった職業をつまらない仕事だと思いがちだが、一方で、私のように技術を学んだりして勉強以外の方法で成就感を味わえる道もかなり多い」とし、「お店のお客様はお金持ちで、社会的地位が高いからといって、私を見下ろしたり無作法に振る舞ったりすることはなく、むしろ尊重してくれる」と言う。そして、「私たちは、お茶のことを『公道杯』と言っている」とし、「お茶をする瞬間だけは、財力・地位問わず、皆が公平であるという意味」だと言いながら微笑んでいた。 地方の出身が北京で生き残ることは容易ではないとされているが、彼女は将来をどう描いているのか気になってきた。 「もちろん、私独りの力で北京で暮らすためには家賃も高いし、色々と大変なことが多いと思います。なので、恐らく良い人に会って結婚するんじゃないかな。そして、私の一番の願いは、10年後か、20年後に喫茶店を開くことです。容易ではないでしょうけど、夢すら見られない将来ではないと思います」

    就職難に対する「違うようで同じ」3つの見方
    「就職が難しくなった訳ではないです。多くの青年たちは、ちやほやされながら育った上、学歴まで高いから、下っ端から始めることを受け入れないのです」 ―郭静(21)職業学校卒業後、旅行会社で勤務 「就職率が低いからといって就職が難しいという意味ではないです。中国は成長スピードが速いから人材を求めています。ただ、一部の高学歴者が低賃金をもらいたがらないのは、個人の選択の問題です」―张玉翎(19)河北民族師範大学学生 「経済成長が個人の就職に及ぼす影響は、大きくないと思います。結局、就職は、卒業証明書でやるもんですね。経済が良くても悪くても北京大学とか淸華大学を卒業した学生たちは、就職への心配はしません」― 李昱蕾(26)瀋陽理工大学卒業後、先峰金融グループで勤務 それぞれ異なる背景を持つ3人の青年たち。彼らの考える就職難は、似てるようで少しずつ異る部分があった。就職そのものが難しくなった訳ではないということには3人とも同意し、中国の就職難は、温室育ちの青年自らの問題だということ、個人の価値観の差の問題ということ、出身大学が就職に決定的な影響を及ぼすということを強調した。これは一般的に、外国で中国の就職難が政策的・構造的な問題による問題という分析と真逆の考え方である。なぜ、中国の青年たちは、就職難を自分のせいにしているのか。その理由について、他の学生とのインタビューを通じて予測することができた。
    中央民族大学大学院の西方経済学専攻の曹林茂(26)は、「中国政府は、産業構造の調整・起業奨励・一世帯二子政策などを通じ、資源消耗と低賃金に基づいた今の成長モデルを変えている」とし、「経済成長率が急激に落ち込まないよう、きちんと対応している」と話した。言い換えれば、国に対する中国青年たちの無限の信頼と自己同一化が、社会の構造的な限界を個人の領域に変えたとも言える。 しかし、このような認識の歪曲が、中国の青年たちに決して悪く働いている訳ではなかった。なぜなら、少なくとも今は、日本の若年層問題の原因と指摘された自責と意欲低下につながらず、希望の火種と働いているためだ。 李昱蕾氏が2012年北京のある雑誌会社に就職した後に受け取った初任給は、1千800元(3万3千円)だった。しかし、それから広告会社やO2O(Online to Offline:電子商取引プラットホームとオフラインの店舗が結合した流通方式)会社、金融会社へと転職し、給料はそれぞれ5千元(9万2千円)、8千元(14万7千円)、1万2千元(22万円)に上がった。わずか満3年ぶりに給料を6倍以上上げたのである。 就職難に対する考え方はそれぞれ異なったが、希望に満ちた人生については皆口を揃えた。
    「一生懸命働いたら、どの中国人でも社会的問題で挫折しないだろう」―郭静
    「希望は自己満足によるものだ。私は欲張りではないので満足できる人生を送れそう」―张玉翎
    「誰でも私のように努力して経験を積めば失敗しないはず」―李昱蕾


    「自己肯定感は、生きる力の源」中国の青年企業家たち

     中国の少数民族人材のための国家重点大学である中央民族大学は、北京大学や清華大学、人民大学と同じく北京海淀にある。最近、この学校では、大学院生を対象にした起業大会が開かれた。学部生を対象に2年に1度開かれるが、大学院生を対象にした大会は今年が初めてである。合計31チームが参加して最終6チームが選ばれ、企業とのマッチング、起業チャンスを与える実践型大会である。
    この大会の本選に進出した肖迪(25)と曹林茂(26)、方毅(25)に会った。
    チームリーダーの肖迪は、「優勝賞金は5千元(9万円)」だとし、「でも、お金よりもアリババのような大きい会社と一緒に自分の事業アイテムを実現できるから必ず優勝したい」と話した。 曹林茂は「起業に興味を持つ中国大学生が段々増えている」とし、「3月に李克強総理が発表した『大衆創業・萬衆創新』政策の影響が大きい 」と言う。
    中国国家統計国の2015年第3四半期の経済指標別現況資料を見ると、免税特典とインキュベーター設立などを骨子とする中国の起業支援政策が、実際に効果があるということが明らかになった。今年の上半期に新規登録した企業は、前年同期比19.4%、新規登録資金は43%増加した。それに、今年6月起業人口が全体就職人口に占める割合は、1月に比べて0.11%増えた。中国の13億人口を考えると、全体就職人口の0.1%は無視できない数値である。とりわけ、北京大学市場研究センターの報告によると、「90後(ジョウリンホウ:1990年代生まれの人)」大卒者の15.6%が起業を希望しているという。 3人とも「90後」である彼らは、「90後をテーマにした複合休憩空間」で大会に参加した。消えていく小さい頃の思い出を浮かばせて感性をくすぐると、消費力のある「90後」は必ず財布の紐を緩めるに違いないということだ。当然、徹底した市場調査を経た後に下した結論である。 彼らは、なぜ磁石のように起業に引かれているのか。肖迪は、「会社に就職した方が安定的かもしれないが、長らく願ってきた夢を実現しなければ、一生後悔しそう」と話した。また、「失敗するかもしれないが、今は失う物もない」とし、「失敗したとしても改めてもっと勉強する」と話した。
    韓国国内には、多くの中国の青年が就職難により政府の政策的支援を受けられる起業に目を向けていると知られているが、実際に中国で会った青年起業家は、「小さい頃からの夢」だと話した。そして、その夢に向けて一歩ずつ段階を踏んでいくもう一人の青年にあった。 李平章(24)氏は、四川省の成都出身で、上海名門の復旦大学を卒業した。大学4年生の時、日本の化粧品メーカーであるDHCで経営教育性(Management Trainee)過程を修了した。教育性の身分だったが、採用と関わる過程であったため、8千元(14万7千円)の給料をもらった。今年、「90後」 大卒就職者の平均月給が2千687元(4万9千円)ということを考えると、かなりの額である。なのに、卒業後、正規社員への転換を諦めて北京行きを選んだ。大学時代に夢見た旅行会社を立てるためには、基礎を築くべきだと判断し、中国で最も大きいオンライン旅行会社に就職することにしたのである。旅行会社では能力を認められ、なんと1万7千元(31万3千円)の月給をもらった。しかし、高額年俸も彼の心を掴むことはできなかった。夢に挑戦する時期になったからだ。 「中国には本当に美しい所が多いです。特に、私の故郷である四川からチベットへ向かう道の風景は、息が止まるくらい美しいです。でも、多くの韓国人は、北京とか上海、香港には詳しいけど、成都とか西安みたいに面白くて美しい都市については全く知らないです。それで、外国人に中国の隠れた美しさを紹介したかったんです」
    李氏は、今年9月「ハイ・チャイナ」という旅行会社を作った。同じ志を持つ仲間5人と一緒に同じ家で暮らしながら下地を作っている。 李氏は、自分の究極的な夢について「大金を稼がなくても、自分が好きで、人に役立つ仕事をすること」だとし、「引いては、グーグルやフェースブックのように、様々な国籍の職員が中国と交流し、中国を理解できるプラットホームを作ることが目標」 だと話した。 まだ目に見える成果はないが、彼の話し方と行動には強い自信が感じられた。「もし、今回成功できなくてもやり直せばいい」と話した。中国の青年たちは、皆このように自信に満ちているのか。 李氏は、「単にお金を稼ぐために起業をするだけで、自分が何をしたいのか知らない場合も多い」とし、「多くの青年たちがジャック・マーのように空の星を見て走っていくが、自分の足元の落とし穴は見過ごしている」と話した。また、「中国には『屌丝(ディアオス):負け組。家・車・彼女のない男性を指す言葉で、2012年中国ウェブサイトで流行語1位となった造語』という言葉が流行っている」とし、「今の中国は、チャールズ・ディケンズが言うとおり、最高の時代であり、最悪の時代でもある」と話した。 しかし、明らかなのは、アリババ・ 腾讯・百度といった中国IT企業の躍進が、多くの人にチャンスと希望を与えているということである。
    梅京京(22)は、昨年、3年制職業学校を卒業し、幼稚園の補助教師として働いた。月給は、3千元(5万5千円)。だが、今年は月収5万元(92万円)を稼ぐ実業家にチェンジした。腾讯の発表した中国版LINEと呼ばれる「微信(ウェイシン)」を通じてダイエット製品を販売を始めた。梅氏は、「中国の貧富の差はどうしようもないが、青年たちはスマホとネットを通じて新しいチャンスを手にすると思う」とし、「ポジティブに考えながら一生懸命努力すれば、将来は決して暗くない」と話す。
  • 中国



    「シェアハウスの他に方法がなかった」
    すべての国の首都がそうであるように、北京は若い中国人なら誰もが憧れる都市である。行政の中心地でありながら、商業・産業・文化・インフラも整っているからである。しかし、地方出身の青年たちが北京に定着するのは、非常に難しい。 第一の理由は、高すぎる家賃である。北京での居住問題を見ると、貧富の差が激しく感じられる。北京は合計6環で分かれるが、輪形の幹線道路が基準となる。梅京京(22)氏は、「北京では1環ずつ中心に近づくと、家賃ががぐっと上がる」とし、「卒業直後に市内で働くと、高い家賃を払えない」と話す。地方から来た学生たちは、家賃の安い北京の外郭の狭い小部屋に引っ越し、2009年対外経済貿易大学の廉思教授が発表した書籍を通じ、「蟻族」というあだ名ができた。当時、北京の蟻族は10万人に上ると推定している。
    居住貧困の現実は、あえて蟻族を探さなくても、北京の青年たちの生活の中によく現れている。4環と5環の間に位置する朝阳区望京は、北京の北東にある居住地域である。そこで会った田飞(32)氏と王飞(仮名、31)氏は、同じ家の中の違う部屋を借りて暮らすホームメイトである。北京の青年たちにシェアハウスは、最も一般的な居住形態である。
    自分を北京外郭出身だと言う田飞氏は、2006年に大学を卒業した後、数百人が一緒に暮らす共同住宅で生活した。安い部屋を探して選択した300元(5千500円)の地下部屋には、ベッド1つしか入らないくらい狭く、シャワーブースとトイレは共同で利用した。トイレは、100人で使って、5元(92円)のシャワーブースを利用するためには、長い時間を待たされた。2007年に地上の部屋に換えたら、家賃は500元(9千200円)に上がった。それから、750元(1万4千円)の部屋に引っ越した。そこでは、マンションのリビングを2つに分けて使い、その半分をルームメイトと一緒に使ったが、その家では12人が共に暮らした。
    そして、2010年に現在住んでいる望京のマンションに引っ越した。3つのうち一番広い部屋を一人で使い、1千元(1万8千円)を払った。家賃は毎年100元(1千800円)ずつ上げられ、今は1千500元(2万8千円)を払っている。中国語の教師として働きながら、一ヶ月平均4千元(7万4千円)くらいを稼いでいる田飞には負担になる金額である。今は3人で住んでいるが、以前は男女3組のカップルと一緒に7人が暮らした。そのうち、最も広いリビングは、新婚夫婦が使ったという。
    新婚夫婦が使っていた仕切りのあるリビングは、現在王飞氏が使っている。家賃は1千600元(2万9千円)。吉林省出身の王飞氏は、湖南省で大学を卒業して廣東省深圳市で働き、2009年に北京に来た。職場まで1時間離れている所にある最初の家は、3人が一緒に住む1千300元(2万4千円)のマンションの1つの部屋だった。同じ町でオフィステル(居住型レンタルオフィス)やワンルームに住むためには、3千500~4千元(6万4千~7万4千円)が必要である。田飞氏は「今は、王飞と仲良くしているけど、他のホームメイトとそうしたことはない」とし、「お互い信頼がないから、ドアの鍵を閉めて暮らした」と話す。
    しかし、このような不便と不安を抱えながらも、シェアハウスに住むしかないのが現状である。 王飞氏は、「給料が1万元(18万円)だけど、一人暮らしのするためには、このうち半分を家賃で払うことになるので、考えたこともない」とした。給料を丸ごと家賃に使うことになった田飞氏には、選択肢がなかった。田飞氏は、「でも、『90後』や80年代後半生まれの人は、『80後』とは違う」とし、「10年の差だけど、経済力を持つ親のおかげで一人暮らしをしている子も結構多い」と話した。


    地方出身の足かせ戸口(戸籍)…愛憎の北京

    第二の理由は、家があっても戸口がなければ、多くの不利益を甘受しなければならないからだ。李昱蕾(26)氏は、朝阳区で一人暮らしをしている。5環離れている町だが、それほど暮らしにくくはない。2012年北京に来て200万元(3千600万円)に64㎡(19坪)のマンションを購入した。親から契約金140万元(2千500万円)を出してもらい、残りの60万元(1千100万円)はローンを組んで月給1万2千元(22万円)のうち、毎月5千元(9万円)ずつ自ら返済している。李氏は、「どうせ家賃を払うなら、投資と思って家を買った方が有利だと判断した」とし、「でも多くの人は、高い契約金を払う余裕がないし、北京に長くは住まないと思うので家は買わない」と話した。普通、地方出身の場合、男性は35歳、女性は30歳頃になると、故郷に帰るという。彼らが帰郷を選んだ理由の中には、北京の戸口をなかなかもらえないからである。

    中国の戸口は、特定地域の合法的な居住権であり、福祉優遇措置を受けられる権利でもある。言い換えれば、戸口のない地方出身は権利が持てず、恩恵を受けられないという意味である。多くの「北漂族(地方から北京に出て働いたり、生活している人々)」の一部は、政府が北京戸口制限を撤廃できると思っているが、現実はそうではない。戸籍制度改革調査に答えた各都市の市長は、全員戸口制緩和に反対した。限られた特権を共有したくないからだ。 李氏の場合も北京の戸口をもらうのが容易ではない。彼女は「結婚した後も北京で暮らしたいが、そのためには北京出身の男性と結婚するしかない」とし、「地方出身同士で結婚してその間に生まれた子供は北京の戸口をもらえず、良質の公立学校教育を受けられないから」だと話した。
  • 韓国



    「不法滞在者と変わらないような、悲しい生活」
    中国に狭い小部屋とシェアハウスがあるなら、韓国には考試院(コシウォン)とワンルームがある。一人暮らしだから快適だろうと考えるなら、それは間違いである。似たり寄ったりだ。 「このヘッドフォン、10年前にお金結構使って買ったものですよ。今はあまり使ってないですけど、当時はこれなしには眠れませんでしたね」
    ファン・ジェヨン(27)氏が厚いヘッドフォンを持ち上げながら話した。検定試験を準備しながら考試院とリビングテルを転々としていた時、隣の部屋から聞こえてくる騒音を遮断するだめにヘッドフォンは欠かせなかった。2004年に上京し、鐘路区昌信洞の考試院に住みはじめ、今住んでいる7坪(23㎡)の舍堂洞の半地下部屋(補償金100万円、家賃3万4千円)に住むまでの過程は、苦難の連続だった。 「再昨年の2月からこの部屋に住みはじめたが、最近も部屋に入るとたまに胸がいっぱいになる」とし、それも姉に補償金を出してもらえなかったら想像もできないことだった。 「考試院、親戚の家、知合の家、寮、リビングテルなどを11年間転々としてきました。しょっちゅう引っ越したら、ソウルの大体の町には住んでみました。昌信洞、東大門、水踰洞、可楽市場、芳荑洞、往十里、東仁川、銅岩、富川深谷洞 …」
    限もなく町の地名を名乗っていたファン氏は、「10年くらい使ったキャリアバッグがあるが、引っ越しをしたら荷物を出さずに蓋だけ開けておく」とし、「荷造りして移動する生活はもううんざりだから」と話した。部屋の奥にカバンだけ開けておいて、洗濯物は干してカバンの中に再び入れる。いつでも移動できるように。 「私が最近『凱旋門』(ドイツの小説家エーリッヒ・マリア・レマルクの第2次世界大戦のパリを舞台にした作品)という小説を読んでいますが、いつナチスから検閲を受けるか分からないから、荷物を出さずにカバンを開けておいて生活する姿が描かれています。まるで、今の私みたいに。不法滞在者と変わらないような生活をしている自分が悲しく感じられた」 あっちこっちを転々としていたファン氏に、そんな中でも忘れられない幸福感を与えてくれた所はリビングテルだった。部屋の中にある小さい浴室でシャワーができるということが、彼には過去11年間の中で最も幸せな瞬間だった。

    人の不幸を見て幸せを噛みしめる悲しい現実

    「あ…これお母さんに見せたくないですが…。最初、部屋を探した時にもお母さんは悲しんでいました。私は良いと喜んでいたのに」
    2坪(6.6㎡)前後のカン・ビョンウ(27)氏の部屋は、家財のある空間を除けば、男性一人が若干余裕のある程度の広さだった。大学院生であるカン氏と、高卒ニートであるファン・ジェヨン氏を比べてみると、他はともかく、居住環境だけはファン氏が比較優位だと言える状況だった。だから、部屋を探したお母さんが悲しんだのもおかしくない。
    一方で、カン氏はむしろ「この町でこの家よりコスパの良い所はない」と強調した。カン氏の住んでいる家は、ああ見えても傳貰(チョンセ: 一定期間、家主にまとまった金額のお金を預けて家主はそれを運用して利益を得る仕組みで、月々の家賃は不要。契約期間終了後には、その金額が全額戻る仕組みになっている)5千万ウォン(500万円)の部屋である。傳貰物件があまりないため、傳貰で住めるだけで幸いなことである。傳貰金は、父親がローンを組んで借りた。カン氏は、「この家から丘一つを登ると、7千万ウォン(700万円)の傳貰部屋がある」とし、「夏になると汗を流しまくると思うし、その部屋の壁はカビまみれだったので、それに比べれば今の所が全然マシ」と言った。
    大田で大学を卒業したカン氏は、「ソウルに住む大田の友達と話すと大笑いする」とした。とんでもない居住格差のためだ。「大田で5千万ウォン(500万円)なら20坪(66㎡)のマンションにも住める」とし、「友達3人で家賃一ヶ月45万ウォン(4万5千円)の2Kに住んだが、1つの部屋の広さがここより3倍も大きかった」と苦笑いした。 ソウルに来たら、これくらいでも御の字だと言った。カン氏は、「不満を挙げるなら、防音がしっかりしていないので好きなギターを思いっきり弾けないくらいかな」とし、「でも、人と比較しながら相対的な幸せを求める現実はとても不幸だ」と話した。
  • 日本



    日本の単身世帯の共暮らしが実験である理由
    日本でシェアハウスが社会的な話題となったのは、2000年代半ば以降からだ。常葉大学の福島みのり教授は、「2000年代頭から『春ランマン』(フジテレビ、2002)、『ルームシェアの女』(NHK、2005)、『ラスト・フレンズ』(フジテレビ、2008)、『テラス・ハウス』(フジテレビ、2012)といったシェアハウスをテーマにしたドラマとテレビ番組が放送され、自然と大衆に知らされた」とし、「同時に、共有経済を紹介する書籍が話題となって、分け合いと絆を通じた新たな消費パターンとライフスタイルが若年層の間で注目を集めはじめた」と話した。シェアハウス賃貸専門のひつじ不動産に登録されているシェアハウス物件は、2005年には25件、2008年には381件、2012年には1,100件以上に急増した。
    しかし、これまで日本の居住貧困は、極めて個人的な問題とされてきた。1950年代以前まで日本の家の間取りは、大体薄いふすまで分けられたが、戦後マンションの普及に伴ってプライバシー概念が急速に広がった。プライバシーが単身世帯の居住文化に重なり、日本の若年層は家族と一緒に暮らしたり、一人暮らしすること以外に考えられる選択肢がなかった。90年代バブル崩壊後、パラサイト・シングル(Parasite single:大人になってからも親から独立しない人)とネットカフェ難民(24時間営業する漫喫やネットカフェなどで泊まる人)のように、 居住問題が家族もしくは個人の領域だけで生じたのも同じ流れで理解できる。 問題の底には、日本の若年層の絆の弱体化があると考えられる。「他人に助けてもらいたくない」あるいは、「遊ぶ友達はいるけど、頼りなる人はいない」という認識から独自生存のメカニズムはより活発に働いた。2007年の厚生労働省の調査によると、ホームレスの6割以上は親と連絡せず、そのうち3割は、「迷惑をかけたくない」という考えを持っていた。

    シェアハウス「コスト削減+α」

    日本の単身世帯がシェアハウスを選ぶ最も大きい理由は、コスト削減である。

    イ・アイン(24)氏は、大学時代に家賃5万7千円の部屋で友達と共に暮らした。家賃と生活費を稼ぐために、お弁当チェーン店で時給900円のアルバイトを3年間し、4年間毎月奨学金として4万8千円をもらった。おかげで卒業の際にはヨーロッパ旅行経費も貯めることができた。今は目黒区の5坪(16.5㎡)のワンルームで家賃9万円を友達と分けて出している。イ氏は、「ルームシェアをしないと、旅行や余暇は全くできない」と話した。

    親しみのある人同士のルームシェアよりオープンした形であるシェアハウスは、起業とつながり、すそ野が広がっている。中原琢(26)氏は昨年9月、九州地方の佐賀大学を卒業した後、先輩の提案でシェアハウス事業に飛び込んだ。同業者の先輩とそれぞれ50万円ずつ出資して作った元金で、東京世田谷区駒沢大学近くの空き家を購入し、「ひだまり」というシェアハウスをオープンした。中原氏は、「日本では知らない人と交流することに抵抗があって、事業を始めた当時は心配だった」とし、「でも人なら誰でも他人への警戒心と同時に付き合いたい欲求が心の奥底にある」と話した。また、「今は一人暮らしが多いけど、時間が経てばシェアハウスに住もうとする人が増えると思う」と付け加えた。
    ここに住むミヒタ・マホ(21)氏とニコール・ギャラガー(33)氏が迷わず「シェアハウスをおススメする」と言うことを見ると、中原の言葉がただ実業家としての願いだけではないようだった。彼らは家賃4万円のシェアハウスに住みながら、コスト削減はもちろん、絆の形成という価値を追求していた。 カナダ出身のギャラガー氏は、今年で日本滞在6年目の英語教師である。5年間を一人暮らししたという彼女は、「友達一人もいない東京で、毎日誰かと日常会話ができるということだけで大満足」とし、「日本人の友達と交流しながら日本の文化についてより深く理解できることも大きなメリット」と話した。 熊本県で専門大学を卒業し、健康食品メーカーに勤めていたミヒタ氏は、10月中旬頃に上京した。部屋を探していたところ、初期費用をセーブできるシェアハウスを選択した。これまでずっと寮で生活したので共同生活への抵抗はなかった。以前の職場で月給12万円をもらいながら1年半で100万円を貯めた。そうして一生懸命お金を貯めた理由は、夢を叶うためだった。今はそのお金でフード・コーディネーター専門学校に通っている。 ミヒタ氏は「寮と違ってシェアハウスには、職業と経験が異なる人たちの話が聞けて良い」とし、「お悩み相談とか東京生活についてアドバイスを聞けること、楽しいことを共にできる友達がいるということは、一人暮らしの時には経験できない喜び」と話した。また、「人に助けを求めることは最初は難しいが、誰かのおかげで問題を解決する過程の中で笑えるなら、それが幸せ」だとした。彼の最後の言葉は、絆の形成が、問題の原因を自分に回す日本の若年層の「自己責任性」問題を改善する糸口となれることを示唆する所でもある。

    絆を超えてビジネスへ

    東京渋谷区にある 「ザ・シェア」は、企業型のシェアハウスである。リノベーション賃貸専門不動産会社であるリビタ(ReBITA)は、ここ以外にも東京、埼玉県、神奈川県など合計15のシェアハウスビルを運営している。
    2011年12月にオープンした「ザ・シェア」は、1階にはお店、2階にはオフィス、3~5階には居住、6階と屋上は共同スペースになっている。居住空間の大きさは、11.6~21.3㎡まで3つのタイプがあり、家賃は一ヶ月で約8万~11万1500円である。
    「ザ・シェア」の管理担当者である三上純治(28)は、「都心にあるため、この値段なら近くのワンルームに比べて安い方」だとし、「3・11震災をきっかけに、一人で暮らすことに不安を抱く人が増えたのもシェアハウスを選ぶ要因の1つ」だと話した。さらに、「時間と空間をより有益にシェアしようとするフリーランサーにとって、オフィスとハウスの結合したここの間取りが一番のメリット」だと付け加えた。すなわち、生活空間で情報・人的交流が自然と行われ、入居者間で相乗効果が出るということである。入居者が知っている地域情報を共有する「ソーシャル・マップ」は、シェアハウスレベルでクラウド・ソーシング(crowdsourcing)が実現された例である。三上氏に、実際入居者間での交流がビジネスに発展したケースも紹介してもらった。
    #地方に本社のあるアパレル輸入販売会社を経営する40代のA氏は、東京まで事業を拡大し、2011年「ザ・シェア」に入居した。事業拡大により職員の採用を検討していたA氏は、入居者の一人である20代女性(ITコンサル企業勤務)と30代男性2人を採用した。普段、日常生活で互いの性格と業務能力を知っていたから可能だったことだ。 #シェアオフィスを契約した20代フォトグラファーとシェアハウス入居者である20代コピーライター、30代ウェブデザイナーが集まってプロジェクトを進めた。「ザ・シェア」での日常を撮った写真にキャッチコピーを入れてデザインを手がけた。リビタはこの製作物を購入してPR活動に利用した。
    三上氏は、「最近、大手企業に勤めたり、フリーとして働く若年層が様々な価値観と情報をシェアすることで、自己成長の礎を築く傾向が強い」とし、「最近の若年層は、過去のバブル盛大と違い、バリバリ働いる一方では交流と余暇のスペースが不足しているため、単に居住空間を共有するレベルではなく、空間を共有することでコミュニケーションと交流の場を設けたいと思う」と話した。 韓国では2012、2013年頃にシェアハウスが知られはじめた。ただ、今はお金を稼ぐサラリーマンよりは大学生を対象とする所が多く、絆より費用に焦点が当てられていることが分かる。 [韓国シェアハウス関連記事]
    若年層居住貧困層140万人…「一屋根共暮らしが突破口」
    家賃 2万円でマンション暮らし…ソウル大学の居住実験
  • 韓国



    「私は『結婚放棄者』だった」

    「それで正確にいくらまで出せるということ?」
    昨年1月1日から付き合いはじめ、結婚を準備しているチェ・ソンウク(33)とソ・ヨンウン(31)氏カップルは、いざ結婚の話が出ると敏感に反応する。6月頃から暗黙的に結婚を前提にして付き合ってきたこのカップルの口から「結婚」という言葉が出るまでは、かなりの時間がかかった。ソ氏がイライラして結婚について聞くと、チェ氏は、曖昧にごまかしたからだ。
    チェ氏も気にかけていたが、そうしてその瞬間から逃れるのが最善だった。片親家庭育ちで経済的に厳しかったチェ氏に、母親からの援助は考えたことすらない。育った環境の影響もあり、幸せな家庭に対する欲求は強かったが、常にお金に困っていた。チェ氏は、「30歳前にどんな手を使ってでも学生ローンをすべて返済してお金を貯めはじめると、40歳頃になってから結婚資金を貯められると思った」とし、「でも、世の中に今の私の状況を理解して10年近く待ってくれそうな女性がいるのだろうか」と話した。また、「経済的に苦しむ中、わざわざ結婚をすると、むしろ不幸になりそうだった」とし、「お金に追われる生活を送り、お金を少なく出した側が多く出した側に申し訳なさそうな顔をするよりは、結婚を諦めた方が良いと思った」と胸のうちを明かした。 若年層が経済的な問題で結婚を諦めるのは、昨日今日の事ではなく、チェ氏だけの話でもない。2012年の韓国消費者院の報告によると、男性の40.4%、女性が19.6%が経済的な問題を理由に結婚しないと答えた。 チェ氏は、「今結婚したい彼女には出会えたが、結婚できそうだから付き合っている訳ではない」と話した。ずるずると結婚の話を延ばしたのも「正直、貯めたお金が一銭もないと話すと、彼女にふられそうで言えなかった」とし、「私がどんなにお金がなくても離れないという確信ができた時に告げるように話そうとした」
    なぜ、彼らは貯めたお金がないのか?

    イライラするソ氏にチェ氏が「何とかして100万円くらいは用意できる」と答えたのは、2ヶ月前だった。ソ氏は「恋愛した時、『こんなにもお金がないなんて』と思うほどだったが、本当にこんなにないとは思わなかった」とした。30代前半の彼らには、なぜ結婚資金も、まして恋愛するお金もないのか。ソ氏は「決して私たちが怠けた生き方をしてきたからではない」と話した。

    彼らが最初に会った時、チェ氏は6年間の記者生活を辞めてオールタナティブ・メディアを作っており、バリスタ経歴を持つソ氏は、ワーキングホリデーでオーストラリアで暮らした後、帰国したばかりだった。ソ氏がチェ氏のオールタナティブ・メディアの筆陣として参加し、縁を結ぶようになった。 ソ氏は、「オーストラリアでは、アルバイトの時給が1千700円程度だから、食事してお茶してもお金が余るけど、韓国では食事代にも及ばない」とし、「このように無力感に覆われて過ごすよりは、一生懸命に働いて骨折り損のくたびれもうけになるよりは、私たちがやりたい仕事をしながら皆が豊かになる文化またはコミュニティーを作ってみたかった」と話した。彼らは、地域コミュニティーに基盤を置いたプロボノをオールタナティブ・メディアの収益モデルにした。しかし、素手で飛び込んだ彼らに、現実の壁は高かった。貯めた元金はなくなり、借金だけ残った。 ソ氏は、「私はバリスタ歴7年で、彼氏は記者歴6年なので、今はお金がなくても毎月20万円ずつ貯めていけば、借金も返済できて結婚もできると思った」とし、「でも、そんな中、病気に行くなどしてお金が貯まらず、調べれば調べるほどとんでもない結婚資金に気を落とした」という。
    「恋愛と結婚は、貧しい状況を確かめる過程だった」

    ソ氏は、これまで最も幸せな瞬間を聞く質問に、「数ヶ月前に本当久々に彼氏とパスタを食べた時」を思い出した。どうにかしてオールタナティブ・メディアで道を探すために必死だった当時、お金がなくてデートを諦めようとした彼らにパスタは贅沢だった。メニューは値段によって決まり、食べるのも減らさなければいけない状況に置かれたら、貧しさが肌で感じられた。自分が可哀想になり、委縮し、恨めしかった。貧困な状況に疲れて2人とも再就職を選択し、付き合ってから初めてパスタを食べた日だった。
    「数ヶ月ぶりに食べました。私たちももうこんな物が食べられると思ったら胸がいっぱいになりました。以前だったら大したことのない日常だが、新たなスタートを迎えるようで本当に幸せでした」 ソ氏は当時を思い出しながら泣き出しそうな顔をした。その泣き声に混ざっている複雑な感情の中には、再びぶつかった高い現実の壁に対する恨みも溶け込んでいたはず。
    自ら世事に疎かったと認めたソ氏は、「周りに結婚している友達や準備している友達を見ると、20代後半の男性が用意した4千万円の傳貰で新婚生活を始めるのが当然だと思った」と話した。「ところで、ソウルの59㎡(18坪)のマンションの傳貰価が平均2千900万円だという記事を読んでびっくりした」とし、「今振り返ってみると、4千万円のマンションを用意してくる男性は一般の会社員だけど、大手企業の役員である彼らの親の資産で新居を用意した『クムスジョ』だった」と言う。
    ウェディング・コンサルティング会社であるデュオ・ウェドが、新婚夫婦1,000人を対象に調査した「2015年結婚費用実態報告」によると、ソウル・首都圏で結婚した夫婦の住宅費用は、1億8千89万ウォン(1千860万円)で、新郎は平均1億5千231万ウォン(1千560万円)、新婦は8567万ウォン(880万円)を結婚費用として支出していることが分かった。 チェ氏は、このような現実に挫折した。そして、私たちの日常に蔓延している経済的基準が間違っていると吐露した。「100万円単位の車を替えることを何気なく話し、贅沢なデートや海外旅行も当たり前の日常のように話すが、自ら結婚資金を貯めながらやりたい放題できる人が韓国の何%にいるのか疑問」とし、「でも、そんな生活が一般的なことで受け入れられ、そんな社会的認識の中で私の努力は無駄になってしまう」と話した。また、「学生時代にはたとえ狭い部屋で暮らしても、勉強であれ運動であれ一生懸命に取り組めば成就感を感じられたが、結婚の前では『努力』とか『成就感』といった言葉は排除されがち」とし、「親に頼らず、2人だけで将来を設計するムードが作られてほしい」と話した。

    それでも…希望はコミュニケーションにある

    ソ氏は、「何坪以上のマンション、いくらの家具と車など、非常識の社会的な通念が多くの負け組を作る」とし、「若年層が過去の世代の作った基準から脱するためには、ありのままの現実に対し、率直にコミュニケーションする方法しかない」と話した。
    「苦しむ姿を見せたくないから、自分の置かれた厳しい状況について話さない青年たちが多いみたいです。でも、親からお金を借りる際に借用証を書いた後に返済しているという話、政策的優遇措置を受けられる具体的な方法に対するアドバイスを聞いたら、現在自分の抱えている悩みが『ただ、私たちだけの問題ではないな』と思って楽になりました。『辛くて諦めようとするのは君だけじゃないよ。勇気出して』というメッセージを共有し、引いては結婚に対する新たな社会的価値を定着させるには、青年たち自らが正直になるべきだと思います」 ソ氏は、競争にならなさそうだったら、人と比較するのはやめようと考えはじめた時から幸せを探しはじめた。まるで、数ヶ月ぶりにパスタを食べたら幸せを感じたように、「賃貸住宅に当選すれば、お金を貯めて広い家に引っ越せば良い」とし、「人と歩幅が違っても、たとえ小さい成就であっても、その中で楽しさが得られるという期待感ができた」と話した。 チェ氏は、世間の口はうるさいもので、質素で「素朴な結婚式」をあげたいと話した。「新婦と新郎はどうのこうのする話で幸せな結婚式が鬱になりそうでいやだ」とし、「私たちがよく歩いたトンネルで式をあげようかと思った」と話した。チェ氏は「皆言わないだけで同じく考えている」とし、「結婚に悩む若年層が私たちの話を聞いて、愛する恋人だけを見つめながら乗り越えてほしい」と言った。
  • 中国



    「月光族でもいい。私は女だから」

    北京もソウル並みになかなか結婚しにくい。とりわけ、男性は、ソウルの男性と同様に給料に比べて高すぎる家賃のため悩んでいる人が多い。賃金比家賃は、北京がソウルより決して安いとは言えない。新居と結婚費用をすべて男性が負担する中国特有の結婚文化のため、負担が重くなる。それに北京に住む地方出身の女性は、戸口(戸籍)問題で北京出身の男性だけを好み、女性の社会への進出の増加に伴い、配偶者に対する基準が高くなったのも男性には耐えがたい現実である。(► 関連記事:「男児選好悲劇」…中、3,500万未婚中高年男性怒り爆発真近)
    望京で会った王飞(仮名、31)氏は、自分のことを「月光族(ユエ・グアン・ズー:2000年代半ばから流行った言葉で、月給を一ヶ月で使い切ってしまう若者たちを指す)」とした。少なくない1万元(18万円)の月収を一ヶ月で使い切っている。 王飞氏は、「洋服を買って、化粧品を買って、美味しい物を食べれば手元に残るお金がない」とし、「未婚女性の多くが月光族生活をしている」と話した。彼女たちが躊躇なく月光族になれたのは、「結婚資金は男性の負担」という認識が強いからである。李昱蕾(26)氏も「もしもの時に備えて貯金はしているが、結婚する時に女性はお金をあまり出さないだめ、結婚資金として貯めている訳ではない」と言い切った。 田飞(32)氏は、最近、4歳下の弟の新居を購入するためにローンを組んでお金を借りた。結婚を準備している妹の親から「北京に家がないとダメ」と言われたからだ。北京の外郭に80万元(1千470万円)の小型マンションを買う過程で、父親が50万元(920万円)、田飞氏が30万元(550万円)のローンを組んだ。田飞氏は、「一応、新居を購入したけど、あまりにも外郭だから新婦の家に気に入ってもらえなさそうで心配」とし、「いつか私が結婚する時にも、男性側で家を用意してくると思って思いっきりローンを組んだ」と話した。

    北京での結婚、直接準備してみたら

    北京で会った女性の話をまとめると、一般男性が一人の力で北京で結婚するのは、夢のような話である。「中国の男性が結婚するためには、車と家がなければならない」と言われているほど女性たちの期待値は高いにもかかわらず、結婚費用を負担するには収入が低すぎるためである。韓国の「結婚放棄者」のような「婚不起」という造語ができた理由である。
    結婚準備の最初の関門は、新居の用意である。中国のある結婚相談サイトの調査によると、女性回答者の72%が「家のない男性と結婚する気はない」と答えた。2000年代後半中国では、「白奴(ホワイトカラー奴隷)」という言葉ができたが、そのうち最高は「家の奴隷」と言える「房奴」である。2014年北京の80㎡(24坪)平均住宅購入費用は、288元(5千300万円)で、北京大学が調査した北京大学卒業者の平均月収が3,109元(5万7千円)だから、賃金上昇率を反映しても給料を貯めて家を買うのは不可能である。 そしたら、中国の中間層の結婚費用はどれくらいかかるのか。新居と結婚式場の価格を実際調べてみた。「80後」の親は、一人っ子の一生に一度の結婚のために果敢に投資しているという前提のもとで基準を高く設定した。
    新居は公園周りなど緑が豊富で、主要大学が集まっており、中关村のオフィス地域とも遠くないため、わりと良い居住環境の整っている海淀区に決めた。不動産の職員である王海涛氏は、まず、北京にどれくらい住んでいるか聞いた。地方出身は5年以上、外国人は1年以上北京に住めなければ、家を買える資格が与えられるからだ。問題ないと言ったら、本格的に物件を見せてくれた。 10㎡(3坪)前後の部屋も家賃が3千元(5万5千円)を超えた。それでも新居だからレンタルではない方が良いと言ったら、売買できるワンルームとマンションを見せてもらった。王氏は、「この町は3~4環に位置し、交通と教育環境が良いので高い方」だとし、「その代わり、家の価格が上昇し続けているため、投資目的であればおススメする」と話した。「昨年、小さい家は50万元(920万円)、大きい家は30~40万元(552万~736万円)ずつ上がった」という。
    価格は、築年数と位置、大きさによって違うが、高い所は1千万元(1億8千万円)の値段をつけていた。ソウル江南の高級マンション並みの金額である。この不動産に登録されている 海淀区物件の㎡当たり平均価格は、5万2千82ウォン(95万円)、最も高い江南区は1,122万7千ウォン(115万円)だった。海淀区は、瑞草区と龍山区の間の水準だった。 実際に空き家を見に行った。王氏は、「ここには農協銀行の職員が多く住んでいる」だとし、「住民のレベルが高い町」だとした。86㎡(26坪)であるマンションの価格は、440万元(8千万円)。どう見てもソウルのマンションよりはるかに古いのに、値段は江南区道谷洞のマンション並みだった。王氏は、「新婚夫婦は部屋2つに60~70㎡(18~24坪)のマンションを好むが、多くは400万元(7千300万円)から始まる」とし、「価格が負担なら、59㎡に350万元(6千400万円)のワンルーム型もある」と話した。
    新居の次は結婚式である。オンライン結婚コンサルティング会社である品啦结婚网のアンケート調査結果、回答者の67.3%は「私の結婚式は、必ず友達の結婚式より派手にする」と答えるほど、豪華結婚式への願望が強かった。そのため、海淀区の高級ホテルに物色、エンパーク・グランド・ホテルを選んだ。ここは、レンタル料金はなく、招待ゲストの食事代を合わせて価格が決まる。1つのテーブルに10人基準で最安値が4千888元(8万9千円)だが、一般的に5千280元(9万7千円)の方が好まれるという。ゲストを400人基準に5千280元の食事を選択すると、結婚式の費用は21万1千200元(388万円)かかる。
    中国百姓婚礼流程によると、中国の中間層以上の結婚所要費用は、婚約(607万円)、婚礼家具(240万円)、ウェディング撮影(36万円)など合計100万元(1840万円)くらいかかることが分かった。これに、新居400万元(7千362万円)、結婚式21万元(386万円)、新婚旅行2万元(36万円)を合わせると、北京で結婚すれば523元(9千637円)がかかることになる。
  • 日本



    婚活、「チジップ」を夢見る女性たち

    韓国と中国の結婚問題を男性の立場からみたなら、日本の結婚問題は女性の立場からアプローチできる。上記で述べたように、日本の男性はわりと若い歳に社会に進出し、結婚を計画する30代になるとそれなりに経済的基盤を固めることができるからだ。

    日本の青年問題を指す「若者論」で女性は常に論外だった。男性と異なり、親と一緒に暮らす女性の非正規職社員が多いのは、今更でもないことでだからである。総務省の経済活動人口調査によると、2010年25~34歳の男性の13.2%、同じ年齢層の女性の41.6%が非正規職社員だった。1990年にはそれぞれ3.2%と28.2%で、35~44歳を見ると男女非正規職割合は、3.3%と49.7%と差が極めて大きい。すなわち、男性と異なり日本の女性は、以前も今も相変わらず非正規職の割合が高かったということである。 日本で結婚問題が社会的な話題となったのは、30代の子を持つ親世代が引退し、収入が急減した2000年代後半からだ。経済的に独立できていないパラサイト・シングルの子に親がもう援助できなくなったのである。親の経済力が弱まるにつれ、若い非正規職の女性は新しく頼れる存在が必要となり、その代案は結婚だった。これは若年層自らの欲求ではなく、親に背中を押されて結婚相手を探す形となった。
    「結婚活動」と解釈できる「婚活」は、2008年『婚活の時代』という本が出版されてから流行りはじめた。この本には、結婚するためには積極的に取り組む必要があるというメッセージが込められているが、これは親世代の欲求が反映された結果だと言える。実際に、2011年内閣府が20~30代の男女1万人を対象に調査したところ、未婚者の63.7%が「付き合っている人がいない」と答えるほど、日本の若年層は結婚のための努力に消極的だった。 日本社会における結婚は、パラサイト・シングル女性の人生を変える代案として浮上した。しかし、これはむしろ若い女性たちに「就職(仕事)の代わりに結婚」という価値観を形成する装置として働いている。2012年内閣府の調査がこれを後押しする。調査によると、20代女性の44%が「妻が家庭を守るべき」と答え、これは3年前より16 %増加した数字である。常葉大学福島みのり教授は、「女子大生を含めて専業主婦を夢見る20~30代女性が増えている」とし、「これは、『仕事の虫の夫』と『家庭主婦の妻』という親世代のジェンダー化した生存戦略が再び浮上していることを現わす現象」と話した。
    婚活に隠れている2つ、「貧困」そして「絆」

    日本の経済システムは、男性が女性を支えるように維持されてきた。これは、男性がお金を稼ぎ、女性は家事と育児に対する責任を持つという根強い価値観から始まったものだ。「失われた20年」が到来する前までは問題がなかったが、経済的な地位が揺れた男性が、結婚を必須ではなく選択とみなし、日本の伝統的な男女役割の価値観は、社会問題にまでつながった。女性の生存方式の1つだった結婚が、親に頼る生活へと変わり、経済的に頼れる親すらいない女性たちは生き残りの岐路に立たされたためである。
    2011年、朝日新聞が報道した「独身女性、3人の1人は貧困」と、2014年放送されたNHKドキュメンタリー「あしたが見えない― 深刻化 する“若年女性”の貧困」は、女性貧困の深刻さを描いた。シングル女性の収入は、数十年前に比べて逆に減っており、 低い収入での生活を余儀なくされている実態は、「ガールズ・プア」 という言葉で少しずつ知られはじめた。常にあった問題だが、未 婚率が増加するにつれ目立つようになった。
    新聞記者出身で、現在和光大学教授を務める竹信三惠子氏は、『現代思想』2013年9月号で婚活について次のように分析した。 「男女が経済的に平等でない日本において、男女雇用が悪化しているにもかかわらず、女性が進出できる場所はない。そしたら、結局男性を探すしかない。『結婚するかどうか』ではなく、『結婚できるかどうか』になる。結婚以外に生きていく方法があまりないのに、以前のように結婚できる男性は格段に減った。その結果、結婚の壁ははるかに高くなり、狭い門を通るための必死の婚活ができたのだ」 貧困が婚活に隠れている第一のキーワードなら、第二は絆である。2011年起きた3.11震災以降、日本の社会における家族の価値は目立つほどしょっちゅう言及されている。メディアは、「家族の絆」を強調し、個人化している日本社会に変化を求めている。さらに、ジャーナリストである白河桃子氏が2011年出した本に出る「地震婚」という言葉も流行ったが、これは結婚に消極的だった未婚者が大震災をきっかけに結婚するために行動しはじめたということだ。一人ということに対する不安を絆で乗り越えるという意思でもある。
    しかし、そう決めたとしてもうまくいくとは限らない。日本の多くの青年たちが人間関係において大変だと思う現象は、結婚相手の異性との関係にも適用される。婚活をテーマにした様々なドラマでは、結婚情報相談所を通じ出会った男女が、互いに対する理解と愛なく、条件のみで結婚のための付き合いを続ける。その付き合いが難しい場合、2人がコミュニケーションを通じ解決するよりは、コンサルタントからの個人レッスンで突破口を探す。問題の原因と解決策は、絆ではなく個人レベルで受け入れられる。ある意味で婚活は、日本の若年層の断絶された関係を回復させるために社会が投げた1つのキーワードでもある。
  • 日本



    関わりの中で跳躍を夢見る

    2010年NHKドキュメンタリー「無縁社会」では、衝撃的な孤独死の例を描き注目を集めた。血縁すら崩壊した、徹底的に孤立した現実の中で関係回復の必要性を喚起させた。
    孤独死問題だけでなく、日本社会の所々には無縁社会の影が落とされている。東京のオフィス街である千代田区丸の内では、昼に公園のベンチなどに座って一人でランチを食べる人々が少なくない。韓国では「ホンバプ」と呼ばれ、新たな社会現象として注目されているが、日本ではありふれた日常である。食事する時間だけでも関わりのストレスから脱し、自由な時間を楽しみたい欲求から始まったもの。多くの若年層が会社を辞める理由として過度な業務量と共に関係の疲れを挙げられるほど、日本社会において関わりのストレスは深刻な水準である。
    一方で、最近若年層の間ではむしろ関わりを通じ新たな跳躍を夢見る例が増えている。その代わり、彼らの求める関わりは、伝統的な組織文化に現れる硬直化した関係ではなく、緩くて水平な共生を目指す関係という点から注目する価値がある。 東京新宿区にある「就トモ」カフェは、東京と地方の学生の就職の格差をなくす目的でオープンした。カフェの運営者である武田陽子(32)氏は、「日本では大体一人で就職の準備をする」とし、「就職の『就』と友達の『友』の頭文字を取り、友達と情報交換しながら、就職を準備すればより効率よく楽しくできそうという発想から名付けた名前」だと説明した。地方の学生たちの慣れていない模擬面接やディベート練習も皆で集まって自然とできるということが就トモカフェの長所の1つである。この日も青森県と宮城県から来た学生たちが面接の準備をしていた。武田氏は、「面接時期になると60~70人が集まる」とし、「彼らは誰かに言われなくても自ら自然とグループを組んで面接とディベート練習をする」と話した。


    ニートを変えた関わりの力

    日本では2004年以降、ニート(15〜34歳までの非労働力人口「若年無業者」)が社会の問題で浮き彫りになった。当時は、多くの人々がニートに対し「豊かな環境で育ち、働く意欲のない怠け者」として認識していた。貧困や社会的排除問題は議論されなかった。
    しかし、彼らは怠けているというより、能力がなくて労働市場で排除(病気・障害など身体が不自由な人や低所得家庭の低学歴の若年)されたか、もしくは人間関係の問題により社会で排除された人が多かった。特に、ニートの半分くらいは、いじめといった人間関係の問題を経験した。 神奈川県横浜市で会った若年たちは、NPOを通じ新たな関わりを持ち、数年間のニート生活から脱し社会に復帰することができた。
    高岡慶考(35)は、3・11震災をきっかけに引きこもり生活をやめた。2002年和光大学経済学部を卒業した後、5年ほど中華料理店で調理補助で働いた高岡氏は仲間と仲が悪くなり、仕事を辞めた。彼は、「それから就職をしようかと思ったが、親がいるから金銭的にも問題なかったし、特にやりたい仕事もなっかたのでニート生活をした」とし、「時間が経つほど親との会話もなくなり、ひきこもりになった」と話した。引きこもり3年目に、高岡は将来への不安と孤独感を感じたが、いざ社会に出る勇気がなかった。 3・11震災の時にも高岡は茫然とテレビを見ていた。彼は「テレビの中の状況が現実の姿とは信じられなかった」と話した。震災の壊滅的な被害状況を見た彼は「何でもやってみよう」と考えたという。「大変な状況に置かれた人がこんなにも多いのに、僕は一体何をしているんだろう」と思って、1週間のボランティア活動キャンプに参加した。そして、その経験は彼の人生を完全に変えた。
    高岡は、「震災地域の住民と会った時、彼らは『元に戻そう』ではなく、『より良い町にしよう』と話した」とし、「前向きに明るい未来を描く彼らの姿にショックを受けた」という。また、「引きこもっていた時にはもらうのに慣れていたが、ボランティア活動を通じ、誰かの役に立っていることがとても幸せだった」とし、「これをきっかけに社会でも一人前になれそうという自信ができた」と話した。
    そして、もう一つボランティア活動中に忘れられない思い出を作った。20代以降一度も誕生日を祝ったことのなかった彼は、「ボランティア活動期間に誕生日が重なって、地域住民と仲間たちが小さなパーティーを開いてくれた」とし、「小さい頃から人とコミュニケーションを取ながら共にすることが楽しいと思ったことはなかったのに、誰かと共に喜べることが本当に幸せだと思った」と話した。わずか1週間のボランティア活動が彼を社会的企業に導き、現在、震災地域を支援するスッタフとして働いている。関わりが小さい奇跡を起こしたのである。 三田邦彦(33)氏は、2000年に高校を卒業した後、大学進学も就職も諦めてニートになった。三田氏は、「10年間のニート生活の中でお金を稼いだ期間はたったの3ヶ月」だとし、「すべてに興味がなかった」とした。三田氏を社会に戻したのは、親の断固たる対処と彼が社会に適応できるように支えたシステムである。「30歳になる前に家から出ていけ」と親に言われ、ネットを探して見つけた所がK2インターナショナルというニート・引きこもりの自立を支援する社会的企業だった。三田氏は2010年に自立プログラムに登録し、日本とオーストラリアを行き来しながらたこ焼き屋さんで働いた。もちろん、政府基金で運営するプログラムだったのでお金はかからなかった。
    そして、今はK2インターナショナルで運営しているたこ焼き屋さんで毎月20万円を稼ぐ副店長として働いている。三田氏は、「K2インターナショナルのプログラムがなかったら、ニートから脱することは容易ではなかったはず」とし、「職員と共に寮で生活しているけど、彼らと共に働いて生活しているのが楽しいし、満足している」と話した。
    関わり、乾いた社会を潤いを与える
    「週3日働いて15万円をもらう採用方式を取り入れば、果たしてどんな人が来るのか気になりました。そしたら意外と高学歴者が多くて社会的にも波紋を呼びましたね」 慶応大学メディア大学院でプロジェクト研究員として働いている若新雄純氏は、日本の社会が様々な考え方と生き方を受け入れられるよう、数多くの実験的な就労ブログラムを進めている。硬直した日本の組織文化が多くの若年たちを社会から追い出し、関係を索漠とするという考えからだ。 少なく働いて少ない給料をもらう「ビースタイル採用(ゆるい採用)」の他に、採用に運勢を取りいれた「ベツルート(志望者が働きたくない会社をチェックしてそれに該当する会社を除き、志望者の誕生日などで相性の最も良い会社でインターンシップとして仕事をスタート)」には203人が志望したが、そのうち早稲田大学10人、明治大学6人、東京大学と大阪大学がそれぞれ4人、京都大学3人など、名門大学出身が多数含まれていた。また、 ナルシスト採用(マニアックな人を組織文化に合わせて教育する訳ではなく、ありのまま就職できるようにする方式)も高学歴者に人気を集めた。 若新氏は、「日本は特にお金もちでなくても豊かに生きることのできる国になった」とし、「もう若年たちは、単に食っていけるかの問題から今後どうすれば人生にやりがいを持って生きられるかを悩む時代が到来した」と話した。すなわち、「ワークライフバランスを重視する人が増えている」と言う話である。 しかし、日本の社会は、彼らの考え方を受け入れられないほど硬直化している。彼は、「日本は豊かだが、選択の幅が狭い」とした。例えば、社会が決めたシステムの中で就職し、十分な補償がなくても会社に忠誠しなければならない。遅刻してもダメ、目立った行動をしてもダメ。このような基準をクリアしなければ、問題がある人とレッテルを貼られる。だから、自然とやる気もなくなる。若新氏は、「日本の若年層は、60点を目指して働く」とし、「それより頑張ってもボーナスがある訳でもないし、それを下回ると怒られるから」と分析している。 若新氏は、「こんな社会を柔軟にするのが私のプロジェクトの目標」だとした。社会が個人の多様性をありのまま認める時、より良い姿に生まれ変わるというのが彼の考えである。
    他说:“我的项目目的就是让社会变得更有弹性。”他认为,当社会肯定每个人独有的个性的时候会变成一个更好的社会。 彼は、ネット上で150人のニートを集め、彼ら全員が取締役を務める「ニート株式会社」を作った。お互い知恵を絞って自らクリエイティブな事業を進められる場を提供するためだった。皆が見くびるニートが、世間の決めたやり方ではなく、彼らならではのやり方で関わりを持ち、モチベーションを上げれば、どのようなことが起きるか気になったのである。 彼らは、昨年にわずか92万円の収益を上げるのに留まったが、メディアは彼らの連合そのものに注目した。現在、ニート株式会社の代表を務める仲陽介(26)氏は、「ニート株式会社で活動している人々の個人能力や創意力は、正社員に比べても劣らない」とし、「一般会社は命令に従うのが大事だが、ニートはそんな人生は求めていないので就職をしないだけ」と話した。 また、ニート株式会社については、「収入が少なくても新たな雇用方法や事業形態を認める人々と一緒に働けて良い」とし、「ニートも集まれば、いい結果を出せるということを証明し、社会から認められたい」と話した。 仲氏の例を見ると、若新氏の意図は的中したと言える。定型化した雇用システムを拒否するニートの多様性を受け入れることで、やる気のなかった彼らに確実な動機を与えたからである。
    若新氏は、「今の日本社会は温かいけど、乾いている状態」だと分析し、「多様性を認めながら、前向きな関係を広げていくことは乾いた社会に潤いを与える役割をするだろう」と話した。

  • 中国



    協力の土壌の上に芽生えた起業

    「取材ですか。中国CCTVも一日中取材しています。あ、彼らは起業者ではなくて見学に来た中学生です。あちこち見ながら質問したいたんですけど、今はアイディア出しているみたいですね」
    車庫カフェの従業員であるヘレン・リュー氏は、海外の取材陣に慣れているように自然と雰囲気を説明した。北京海淀区中関村の起業街にある車庫カフェには、活気が溢れた。三々五々集まった人々は絶えず話し、取材陣まで混じっていて市場に来ているような雰囲気で非常に騒々しかった。
    スティーブ・ジョブズが車庫でアップルを立ち上げたことから名付けた車庫カフェは、2011年オープンした。オープン当時は、起業者が集まって知恵を絞ったり協業できる「コー・ワーキングス・ペース(co-working space)」の性格が強かったが、それ以降投資家とのマッチングを行う民間インキュベーター役割まで果たし、最も人気のある起業カフェになった。 車庫カフェでは毎日午後1時30分になると、特別なイベントが開かれる。ここを利用する起業者たちが、自分の事業アイテムについてはなしたり進捗状況を発表したりする時間である。 この日発表した南忠辉(26)氏は、自分の開発している「アプロ開発者向け無料統合アカウント管理プログラム」を紹介した。発表が終わった後、南忠辉氏が席に戻ってきたら、6~7人くらいが押し寄せた。「どんな仕組みなのか」、「無料サービスなら収益はどこで上げるんだ」、「アプリ開発者だけど、そのプログラムを活用したい」など、質問をしたり意見を供給するためだった。
    このような姿は発表後により活発になるが、つい最近のことではない。車庫カフェで会った韓国人であるチョン・イェジ(27)氏は、他国で韓国語を聞いて嬉しくなったのか先に声をかけてきた。「アジアの人々が交流できるコミュニティー・カフェを作るのが目標」だとしたチョン氏は、「一緒に始める中国人を探しにきた」と話した。また、「ここの起業者の活発な交流に感心した」とした。「起業準備しているのか、アイテムは何かなど、通り過ぎる人たちが聞いてきて面倒くさい」からだ。チョン氏は、「車庫カフェでの経験は特別」だとし、「自分の利益だけ考えるよりは、互いに助け合って意見を積極的に共有する人々の姿は印象的だ」と親指を立てた。

    車庫で出会った起業者たち

    山西省出身の南忠辉氏は、大学で英文学を先行した。「英語教室で講師と働きたら、ネット講座アプリにも興味ができてここ(車庫カフェ)まで来るようになった」と話した。彼は、「起業を始め、ジャック・マーも私のように英語を専攻したという話を聞いて自信が持てるようになった」とし、「アリババや腾讯のように、中国の経済発展を追い風に一瞬にして成長する会社を見ると、私も十分成し遂げると思う」と話した。

    車庫カフェの長所を挙げるのも忘れなかった。南氏は、「起業者同士で集まっているから、雰囲気や情勢を把握しやすく、今後の事業構想に何が必要なのか分かる」とし、「小米の成功秘訣もマーケットが求めることを正確に把握したため」だと分析した。彼は、「車庫カフェで学んだ長所を活かして必ず成功する」と抱負を語った。 王徐葛(27)は、北京工業大学コンピューター工学科を卒業した後、2年間会社で勤めてアプリの開発を始めた。彼のアイテムは、宅配ボックスをスマートフォンと連動した「スマートキャビネット」。王氏は、「車庫カフェには、私みたいに日常生活をアプリとつなげる事業を考える人が多くて話をしながら色々な情報を得られた」とし、「また、ここを訪れる起業者たちの熱い情熱が感じられてより元気になる」と話した。彼は「今は収入もなくて、なかなか進展しないが、可能性のあるアイテムであるだけに成功させる自信がある」と言った。
    「各自図生」を越えて…

    中国版シリコン・バレーと呼ばれる中関村には、2万以上の研究所と企業が集まっている。 中関村で起業して世界の主要証券取引所に上場した企業の時価総額は、2013年基準2兆523億元(約248兆7822億円)で、韓国の1年の予算と並ぶ巨額である。
    中関村が起業のメカとなった理由は、車庫カフェの例から分かるように、「各自図生(それぞれが生きる道を探すこと)」の競争から脱し、協力を通じて共生できるシステムを構築したからである。そして、このような「協力システム」は、社会に出たばかりの新米起業家にもそのまま適用される。人に勝たなければ生き残れないのではなく、人がうまく行かなければ自分もうまくいかないということに気付いたからだ。 北京の主要地域ごとに地名に「ソーホー(SOHOㆍ small office home office)」を付けた大型ビルがある。オフィスと商業施設を結合したソーホーは、わずか数年前まではなかった。中国の起業ブームをそのまま現わすソーホーは、起業者にとっては消費者と投資家に会えるというメリットを提供する。

    北京で若者たちが最も多く集まる繁華街である朝阳区三里囤にもソーホーがある。三里囤のソーホーオフィスの家賃は、月々3千~4千元(5万5千~7万3千円)で、一般オフィスより高めだが、ここに立てられた小規模会社は若い消費者と会えることはもちろん、集積効果の恩恵もばっちり受けている。

    起業6年目の张喜彬(30)氏は、プログラマーと会社をつなげる求人求職情報会社を営んでいる。元々は直接会社のオンラインシステムを構築する仕事をしたが、需要が多くなるにつれ人材受給に支障ができた。そのため、2014年に人材と需要をつなげるヘッドハンティング業界への参入を決めた。 张氏は、三里囤ソーホーに入居した理由について「うちの会社みたいに小さい会社が多く入っているので、コミュニケーションが取りやすく、協業に容易」とし、「ここはメディアが注目し、投資家もよく行き来する所なので投資やPRに有利だ」と述べた。
    彼が協業の必要性を痛感したのは、大学時代に失敗した起業経験があるからだ。张氏は、「アリババと淘宝のようなネット通販が売れはじめた頃、似てるようなウェブサイトを立ち上げたが、結局失敗した」とし、「周りのアドバイスや助けなしに独りで成功することは容易ではないということに気付いた」と話した。失敗後に再起ということもなかった。経験を通じて学んだことを反面教師にしてやり直せば良いから。 「起業に一度失敗したからといって問題にはなりません。ただやり直せば良いです。初めて起業する時も素手でしたが、2回目だってそんなに変わりはないです」 そして彼は現在、従業員100人に年間売り上げ2000万元(3億6千800万円)に及ぶ会社のオーバーとなった。また、彼はソーホーを追い風に中国最高の求人求職情報サイトを目指している。 またもう一人、ソーホーの恩恵を受けている起業者に会った。1人用オフィスを借りている姜英才(32)氏は、最近自分の会社が合併をして都心から離れた遠い所へ引っ越したせいで、投資家とパートナーに会いやすいここに別のオフィスを借りたという。他の起業者と自由にコミュニケーションできるメリットは彼には有用な所である。

    姜氏は、2009年北京航空航天大学の電気電子工学科を卒業し、仲間と一緒にフレッシュ・ディスクメーカーを立ち上げた。そして、昨年1月にネット会社と合併してスマートフォン画面をそのままテレビなどの大型モニターに映す変換装置を作る「トランスパッド」という会社を設立した。姜氏は、「家であれ、バス停であれ、スマホさえあればモニターにつなげてやりたい仕事ができるようにすることが目標」だとし、「必ず成功すると思う」と話した。
  • 韓国



    誰が「各自図生」を真理にしたのか


     「努力せずに正社員になってはならないじゃないですか」
    これは会社側の発言ではない。KTX(韓国高速鉄道)女子乗務員たちの正社員への転換要求に対する一般大学生の反応だった。これは、ただ学生一人だけの考えではなく、多数の若年たちの考えである。「私は正社員になるためにこんなに苦労しているのに、そんな苦労もしなかった非正規社員が一方的に正社員への転換を要求するのは正当ではない」というのが今日の韓国の20代大学生の考えである。 大学講師であるオ・チャンホ氏が2013年出した著書『私たちは差別に賛成します』で紹介したこの事例は、若年たちの共感能力と共生の意思がどれほど薄いのかを端的に現わしている。オ氏は、本のプロローグで「大学で会った20代は厳しい競争そのものを模範的な人生と理解している」とし、「彼らは、競争優位に立つためにどのような差別もためらわないことを公正だと思う」と書いた。 2015年の韓国で話題になった「ヘル朝鮮」と共にくっ付いてくる言葉の中に「マンハン民族」と「竹槍」がある。「マンハン民族(滅びいた民族)」は、自虐的な表現で、話し手が自分の話をまるで他人事のように話す話し方であり、「竹槍」は不平等が澎湃としている現実の中で唯一平等を表すものである。「竹槍の前では誰もが平等だ」論理は、時には連帯闘争と同じく受け入れられる。しかし、「韓国がうまくいかないのは私のせいではなく、現実が厳しさを増すほど私の生き残る道を探るのが真理」という「各自図生」の価値に覆われた若者たちに竹槍の価値はただ暴力的な掛け声に過ぎない。 ノルウェーのオスロパク大学パク・ノジャ教授は、今年の秋にあるコラムで未だに連帯できない韓国の若者に対し「多くの若者たちは、『ヘル朝鮮地獄図』を描きながらも、まだそれぞれの努力が問題を解決してくれると暗に期待している」とし、「財閥企業がどんなに輸出量を増やしても、多数の暮らしが厳しくなるだけだという事実を今後何年間確認し、結局連帯を通じた社会の変化以外には生き残る道がないということに気付くだろう」と述べた。


    Youtube - In a Nutshell – Kurzgesagt
    もちろん、すべての若者が「各自図生」の極限競争という価値を求めながら生きている訳ではない。生き残りのために激しい競争を余儀なくされているが、その中で自分の生きる速度を維持するために地道に努力する人もいる。

    「無重力」と「悠々自適」の小さくても大きい違い

     もちろん、すべての若者が「各自図生」の極限競争という価値を求めながら生きている訳ではない。生き残りのために激しい競争を余儀なくされているが、その中で自分の生きる速度を維持するために地道に努力する人もいる。

    インディーズ・ミュージシャンが集まって作った社会的企業である「悠々自適サロン(悠自サロン)」は、脱学校青少年(学業を中途で放棄した青少年)たちの社会性回復をサポートしている。悠自サロンの共同代表であるイ・チュンハン氏は、「韓国社会は学校、職場、家庭などどこか心の拠り所のない無重力状態でありながら、社会と制度は過度に干渉して無理な努力な要求する過重力状態だ」と分析した。すなわち、激しい社会のプレッシャーの反作用によって無重力社会が作られるということである。 したがって、彼の目指しているのは、適正な重力場が働く、それぞれのテンポと価値によって悠々自適に人生を送っても誰に何も言われない社会にある。彼は、「脱学校青少年・ニート・引きこもりと能力者は実は紙一重」とし、「彼らが寂しがらないように、社会が適切な重力場を作ってあげると、彼らは逆にクリエイティブな人材に成長できる」と話した。 そしたら、彼の言う「適切な重力場」はどうやって作れるのか。悠自サロンの運営しているプログラムである「チクディンイェデ(忙しい日常の中で寂しさを感じるサラリーマンが一緒に音楽を楽しめるようにするプログラム)」を修了した理髪師(27・悠自サロンでは平等な関係を築くために名前の代わりにあだ名を使う)の例が解決策になるかもしれない。
    「小学校の教師になるために教育大学に行きましたけど、大学の友達は教員採用試験という一つの目標だけ目指し生きるように見えました。私はただ好きなように音楽もして他の考えもしたりしながら生きたいだけなのに、大学の友達はその度に『また意味のないことしているね』と思っているようでした。自然と私は教育大学に通う間ずっと変人扱いをされました」 理髪師は寂しかった。自分を理解する人は一人もいないと思った。関わりの中で寂しさを感じる時に見つけた突破口は、もう一つの異なる関わりを持つことである。自分が好きな音楽という関心事を共有できる友達に会えるチャンスを探しだし、悠自サロンともそうやって縁を結んだ。悠自サロンで会った友達とは、「ㅇㅇ」というバンドも作った。 「私に一番大事だったのは、ただ自分を理解してくれる人々に会うことでした。そして、運良く『私もそうだった』と言ってあげる人々に会って慰められました。彼らの出会いを通じ、居場所ができてから他人との関係も良くなった気がします」 小学校の教師である理髪師より困難な状況に置かれた若者は多い。理髪師は、「彼らがどんなに厳しい状況にあるか分かるので、下手に慰めやアドバイスはしないようにしている」と話した。にもかかわらず、人との関わりを大切にしてほしかった。自らを縛る関係ではなく、少し緩くて完璧でなくても良い関係。そして、お互い慰められ、良いエネルギーを与えられる関係。理髪師がそうであったように、無重力状態で浮遊する若者が自ら悠々自適に生きられる力は、「過度でない、小さな人力」で十分かもしれない。